昭和52年6月23日 朝の御理解


78節です。

御理解第78節「神の機関にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら、家柄一筋となって、これが神の機関にかのうたのじゃ。神の機関にかなわんと、身代もあり、力もあるが、まめにない。まめで賢うても、身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫を断ってしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代もでき、一年勝り、代勝りのおかげを受けることができるぞ。」と。


信心が、どうでも代々続くような信心を頂くにある。いわゆる、しかも代勝りに、親の代より子の代、子の代よりも孫の代と、ね、そういう信心が、段々三代続いたら、神の機関にかのうた氏子と。氏子と言うよりも、神の機関にかのうた家として、いよいよ、ね、繁栄、いよいよ栄えて行く、土台が出来るのです。だから三代続かなければならないために、どうでも家族が勢を揃えて信心させてもらわなければならんということです。しかも、勢を揃えると言うても、信心の焦点というものが、みんな一つでなからなければいけない。右向いとる人もおりゃ左向いとる人もおるではいけない。そこでいよいよ、合楽理念に基づく生き方。
昨日若先生と、話したことでしたけれども、本当に、この合楽理念を基にしてということは、実に、まあ単純である。誰でも覚えられる、誰でも行じられる。しかもそこに、助かりの理念と言われるように、助かりの実証をしていくことが出ける。そういう信心が家族を揚げて出来なければならない。どうでも、言うならば合楽理念の確立、銘々のと同時に、家庭の上に合楽理念の確立を、いよいよ急がなければならない、こりゃ大変なことだ難しいことだということではない、もうそれこそ、昨日若先生と話しましたように、もう単純と言えばこんな単純なことはない。ね。
それこそ、仏教で言う教典とか、または、キリスト教で言うバイブルなどといったような、ね、もうそれを、言わば、一通り空暗記したところで、ならそれが助かりの理念には繋がらない、何時何時までも因縁が残り、何時何時までも罪業、言うなら罪の、というものは消えることはない。大変に、言うならば、徹しようとすればするほど難しゅうなるというのが、過去の私は宗教だったと思うです。
教祖金光大神が御出現になられたというのは、言うならば、あぁ、そういう迷妄と言うか、言うならば、嘘の教えと言うと極端ですけれども、そりゃ釈迦でもキリストでも、ね、その時点において、天地金乃神様は教えられたのである。ですから、もちっと、なら、成長しておったら、金光大神が受けられたような教えを受けられたかも知れない、金光教始まって118年間、教祖金光大神の教えをいかにも忠実に、守っておかげを頂いてきた、ところが、それは実に、散漫なものであった、そしてそれは金光教的独自なものでもなかった、独自と言っておりながら独自なものでなかった、やっぱり水かぶったり断食したりも、せにゃ例えば教会が発展しないとか、人は助からないとかという、一つの間違った思い込みの中に金光教はあった、言うなら過去の宗教もこう一緒に、こう混ぜたようなものがあった、ね、そこで、なら今度は金光大神の教えを、本当に天地金乃神様が金光大神に頼まれた、難儀な氏子を取次助けてやってくれというその、難儀な氏子が取次助けられるとには、このようにも簡単な教えがあるんだ、このようにもう絶対間違いのない道があるんだと、真の信心真の信心と言うて、ね、あらゆる角度から、言うならそれを探し求めた、それがそこの金光教であった、ね、そしてその金光大神の教えをです、例えば私が段々、金光大神が教えておられることは嘘じゃない、必ず、絶対のものの、というわけで金光大神の教えを私が頂いて、それを実証して今現しておるのが合楽の御ヒレイです。ね。金光様の仰られることをです、もう言うならばです、ね、私も過去においては手探りの信心であったけれども、教祖の信心のいよいよ助かる、一つの理念ということが、合楽の、合楽理念は助かりの理念だと言われるようにです、もう他に脇見もせずに、この事を行じていったらいい、この事を分かっていったらいい、しかもそれが成そうと思えば誰でも成せれるような、手がかりというものが合楽理念である。だからどうでも銘々の心の上に自分の家庭の上に、合楽理念の確立が出けた時に、はじめてです、ね、親もおりゃ子もおりゃ孫もおるのですから家庭の中に、ね、その合楽理念を基にして、生活が、言うならば出けて行く、もうこれからば間違いなく子に孫に伝わらないはずがないと、ね。「そりゃ金光様の信心っちゃ有難かばい、おかげ頂くばい」といったようなことでは付いてこれない、だから先ず、ね、そんなバイブルとか、あの教典なんかを研究するより難しいことではなくて、これはもう特別の学者か、篤信な者でなからなきゃ出来ることでもないでしょうけれども、それをなら極めたところで助かりは約束されてないんですからね。もう未来永劫助からないごたる風に出けとるです。ね。そこにです、例えばなら、格の信心というものは、もう振り切り振り捨てていかなければいけない、金光教の信心もなら118年間の信心はもう一辺ごわさんにしてしまわなきゃいけない、ね。そして先日から、私が頂いておりますように、ね、金光大神の信心のその中の、これが本当の徳を受ける道だおかげを頂く道だというものをです、ね、神様が金光大神に教えられたこと、そしてそれを私が金光大神の教えを実証したこと、ね、なら私の言うたことを、なら末永建夫先生は実証しておるということが言えるわけです。このようにも間違いがないんだという。ね。神様が、ね、「俺もお前も本物だ」と。いう、これはあのラジオの、んにゃテレビで、えぇなんかウイスキーかなんかのコマーシャルの時に、言う台詞ですけども、それを私が頂いた時に、ね、神様がいよいよ金光大神に本当の事を教えられた、その本当な事もです、金光大神の言うならば、その教えでは、舌足らずと言うか、ね、それを金光大神の言われたことを実証してきた者がいなかった、ね、そんならおど大変なおかげを頂いたり、お徳を受けて沢山な人が助かる、なら現代においてもです、ね、例えば大きな教会、いわゆるマンモス教会と言われるような、何千と言うような人達が毎月ご本部へ月参りをするといったら教会もいくらもあります。けれどもそこにはね、助かりの理念がない、ね。だからそういう意味においてです、私は、いよいよ三代続いたら神の機関にかなうた氏子として、家柄一筋となって、おかげの頂けれるために、どうでもこの合楽理念の確立を自分の心の上にも家庭の上にも徹底していかなきゃいけない、だからもう答えは一つなんだ、こういう時にはどうしたらよいと、あんたはあっち向いとる私はこっち向いとるじゃなくて、みんな一つにならなければ嘘なんだ、答えが、しかもその、こうやって計算せにゃんごと難しいことでもなからなければ、(?)逆立ちしときゃならんっちいうごたる修行もないのですから、宗教の中にあるんです、とてもとても人間業じゃ出来ることじゃないような修行をしなければ、本当の悟りが開けんといったようなね、本当に逆立ち一生しとるっちゅうような宗教もあるとですよ。教祖はそういう難しいことはひとっつも仰ってない、ね、いやその合楽理念が身に付いて、それを行じることになってくると、段々有難うなって嬉しゅうなって、愉快にになってくるのが合楽理念です。ね。
昨日、正教さんと、話したことでしたけれども、昨日むつやの謝恩祭、もう本当に、本当に一分一厘ずつではあるけれども、本当なことへ段々なって行っておるということが有難いというお話の中に、お話をした後に、「今日の御理解のここんところは合楽理念にもう一つ加えなければいけないところですね」と言うて、あの話したことでした。というのは、今教団で、それこそ躍起となって、その、まあ論争が続いておるわけです。「こうだああだ」と言うて、もう喧しくいわば言われておるわけです。それは「頂く信心から生みなす信心」ということが言われております。ね。昨日私はむつやで頂いたことから頂いてから、もう確かにそうだと思ったことはですね。頂く信心から生みなす信心ではなくて、ね、「頂く信心と共に生みなす信心」じゃなからなければ生みなされることは絶対ないという御理解でした。ね。頂くというのは、ね、お取次ぎを頂いて、ね、お取次ぎをお願いして、そしておかげを頂くという、そういうおかげに終始した信心から、もう卒業しなければいけない、そして生みなす信心、なら生みなす信心ちいうのがひとりで生みなされるはずはないのですから、ね、やはり陰陽合体の、からしか生みなされないのです。ね。それには、もう金光教のこれは独自性でもあるということはです、ね、自分が信心に向えやわが心が神に向えや、生神にもなっていけれるという程しの道であると同時にです、ね、どういう、それはうんなら、悪人であろうが屑の子であろうが、神様どうぞお願いしますと言うて、お取次ぎを願わせて頂くところに、そこに奇跡とも思われるようなおかげが建ち現れるということが金光教の独自性です。もう金光教にこの頂く信心が無くなったらもうお終いです、というてならその頂く信心だけに終始したら、それは、言うならば御利益信心と言われても仕方がない、その頂く信心、おかげを現しながら、ね、お取次ぎを願っておかげを頂いたならば、今度は信心を頂くという、お取次ぎを頂く、それは信心を頂くということ、お願いをした、そして帰りには信心を頂いて帰る、その信心を頂くというところにです、ね、合楽理念があるわけです。どういう風にして、なら今日の御理解をこなすか、どういう風にして今日の御理解を合楽理念に基づいた生き方にしていくかと、いよいよ急がなければならないのは、いよいよ合楽理念の確立である。と言うてまあ夕べもお話したことですけれども、皆さんも、ね、大祓い心行を、徹底をきしておられるでしょう、同時に、合楽で言われる五つの願いというものは、ね、合楽の信奉者である限り、柏手して御神前に向かうたが最後、必ずあの五つの願いというものはなさっておられるであろう、どんなに繰り返しに強引にお願いしても、これは強引なということではない、神様が喜んで下さること、何故かと言うと、それは神様の願いだからと私は言ってるんです。これも合楽理念なんだ、ね。あの五つの願いというのは、そのまま私共の願いであると同時に神様の願いなんだ、氏子信心して健康になってくれよ、氏子信心して家庭円満になってくれよ、氏子信心して子孫繁盛家繁盛のおかげを頂いてくれよということなんですから、ね、そして神の手にも足にもなってくれよ、ね、神願御成就のお役にも立たして下さいというような健気な信心が出けるようにというのが、あの五つの願いなんです。そこで、昨日は改めて、むつやで頂いた御理解ですけれども、なら、ね、体の丈夫を願うからには勿論不摂生なことをして体の丈夫だけを願うても、それはいけません、と同時にです、なんと言うても、体の丈夫を願うと同時に心の丈夫を願え、心の健全を願えという、それが入ってるんだということ、体の丈夫を願うという内容は、ね。言うならば病気なんかは心の病とさえ言われるくらい、だから心を治せば病気が治ると繋がっとる、だから体の丈夫を願うには、どうしても心の健全を願わにゃいけん、心の健全を願うと一切が有難い有難いという風に受けられる、ね、言うなら馬鹿と阿呆になれれる、それに火が着いとるから煩わしいものは段々落ちて無くなってくる、ね、左巻きになることですから、蚊取り線香になることですから、それに火が着いておれば、もうそれ、それだけでもいよいよ心は大きくなっていくと同時に自分の周辺の煩わしいものも落ちていく、ようにです、自分の心がねぎこちない、たったこのくらいな事が引っ掛かって引っ掛かってしょうがない、このくらいな事が腹が立って仕方がない、心が不健全だからなんです。ね。だから体の丈夫を願うならば、心の丈夫も共に願うて、ところがあるはあるは自分の心の中に、たったこのくらいな事が引っ掛かるという、その、その引っ掛かる問題をです、自分の心から改めていくというところに、なら改まって願うということになってくるのです。ね、「この頃はもう安心しております」てんなんてんっちう言葉は合楽じゃ流行らんごつなったと、ね、出来るだけ心配せにゃいかんっち、「あんたどんが安心はほんな安心じゃない」っち、本気で心配しなきゃいけん、本気で不安になり、本気で心配になるから、神様に本気で、いわゆる教祖が仰る「心配する心で信心せよ」ということになるのだ。ね。
心の健全を願うということ、それはそのまま体の丈夫を願うという内容でなからなければならない、家庭に不和の無きが元と言われる、勿論自分の心の中の平和を願わなければならない、そこでなら、家族が勢を揃えてです、ね、親も子も孫も、ね、心の和を願うていく、そこに初めて拝み合いの生活というものがある、それは普通一般に言われることです、家庭中が勢を揃えて、家庭中が拝み合うていくような信心生活、それが中々難しい、ところがです、なら合楽理念を引っ張ってくると見易いんです。いや平和にならなければ馬鹿らしいごと説いてあるです、銘々が。ね。そこに合楽理念を活用していかなければいけんのです。こういう時には合楽理念はどう説いてあるだろうかと、紐解いてごらんなさい、それこそ見易う、しかもね、そうすることが本当だということを確信を持って説いてあるです、それが神様の御心だと、はっきり、ね、言うなら神様の心を適切するように説いてあるです。ね。家繁盛子孫繁盛。ね、いよいよ願わなければならない。ね。本当に御用が出来る願いを立てなければならない、ね、家繁盛子孫繁盛、言うなら合楽理念をもっとうとして、お互い信心生活させて頂くところから、親も子も孫も、ね、信心になっていく、いわゆる代勝りの基礎はもうコツコツとして出けていきよる、ね、例えば御用、御用せにゃ助からん御用せにゃ助からんといったようで、まあ御用御用と言うて、それこそ取り手間役人のような、軽々しい御用を今まで言うてきたように思う、私共も随分これでだまくらかされたごたる感じがするです、ほんなこて御用すりゃ助かるがと思うちから、もう馬鹿んごつなって御用したっち、そればってん助からじゃった、ね。だからそれは嘘だということを私は昨日、合楽理念の中でも説いとるです。ね。御用というのは、させて、させてもらわずにはおられない、しかも必ずその結果は有難いとお礼の言えれる心が生まれてくるのじゃなからなければ御用じゃない、それは私用だ、いっちょ足らん、一日例えば一生懸命の働きをさせて頂いて、此の方の行は家業の行だからと言うて、ね、もうそれに腰かけて、私だんお参りはせんけれども、一生懸命家業の行をしよるけんと、そして「ああきつかきつか」っち言いよったようなことでは、家業の行にはならんっちうの、家業の行というのは、それこそ朝のすがすがしさ昼の忙しさ、そして答えに夜の有り難さというものが、答えになって出た時に初めて今日は結構な御用を頂いたということになるのだ、だからもう実に簡単に、明確にですね、あの御用が、本当、今日は本当な御用じゃなかったなぁと直ぐ分かるごと、答えが出て来るです。そこで明くる日はまた、新たな取り組み方で、本気でね、夜の、言うならば御祈念の時には、、「今日も結構な御用に使うて頂いてありがとうございました」とお礼の言えれるような御用させて頂くことのためにです、ね、心行をせよ、もう心行とはもう本当に、ね、風呂に行ってからでも便所に行ってからでも、ね、道を歩きよっても出来るんだと。私今朝方、お風呂入らせて頂いたら、近頃最近にない、もう風呂ん中がキチーっと片付いとった、もう本当嬉しい、ありゃもう直ぐ乱れる、心行しよらん証拠です、タオルばちょいとかけただけで、こう引っ張る、どこにどうあるじゃろうかと思うごたるばってん、それが出けん。今朝はもう実に見事に出けておった、そういうことですからやろうと思えや出来ることでしょうが、ね。そういうなら心行の伴うた御用をさせて頂くと、必ず「今日も結構な御用をさせて頂いて有難い」という答えが出て来るんです。ね。そして目の粗かったところはお詫びをさせて頂き、明日はもちっと目細ういこうという生き方にもなってくるわけです。ね。ですから勿論五つの願いが合楽理念の中に入っておりますが、それをなら具体的にです、いよいよ自分の生き方の上に、家族中の者の生き方の上にです、これをどうしてもひとつ浸透する、言うならば洗脳ということを申しますね、合楽でおかげを頂かれたらですね、これが本当だと、、、例えばうんなら、先日私は、あの、元の志那ですね今の中国です、の、もうそれこそ徹底した、その共産主義の国家として、もう水も漏らさんような徹底ぶりだそうですけれども、そこにはなんの潤いもないそうです、さてお国の為だお国の為だと言うので、もうそれこそもう布一寸買うでも米一合買うでも、ずい~っと昔の、あの日本の配給時代のような、ようなところを通ってるんだそうです。もう味合いもなからなければ、もうそっけもない、ただキチッとなんかが出けていっておるというだけのこと、言うなら人間的な情緒なんかっていうものはもうさらさらない、良い物はみんな輸出向きである、ね、色んな昨日もむつやでお茶碗を頂いたが、あれは志那の物だった立派なもんです、ところが志那人のそげな立派な物は絶対使うちゃらならんごとなっとる、だから結局日本人が身に、売りつけるために作りよるようなもんなんです。美術品を鑑賞するなんてんもう今の、だから志那中国では出けない、ね。だから、ある意味合いで家庭の中には出けたり出けたなかったりのごたるけれども、それでいて何とはなしに、和が保って行けれる、丁度合楽のごたる風です。もう(?)出けたつもおらなければ、特別ぬけたつもおらんです。もうしだごだんごたる中にあってなんとはない、その和を保っていけれる、しかも情緒、情緒たっぷりと言うか、ね、有難いものをいっぱいに感じさせて頂きながらの、こうやって、なら運営が出けていっておる。ね。これは合楽理念を芯にしておるからであります。ね。
ですから、合楽で信心をする、修行をするならば、先ず合楽の信心にです、一つ洗脳されてしまわなければいかん、今の中国はもう共産主義というもので洗脳されてしまっておるから、それが案外平気で、まあ出けておるわけですけれども、ね。だからね、そんならその答えはどういうことかと言うと、無味乾燥なという答えしか出てきてないですけれども、合楽理念に、を持って洗脳されたらです、もう有難い、楽しい、愉快なというものだけしか答え出てこないです。ね。「親先生はあげん言いなさるばってん、これだけは自分のつがほんなこつ」といったような考え方ではだから、洗脳されとらん証拠です。いっちょそんために、馬鹿んごつなって合楽理念をマスターするということは、洗脳されるという、洗脳を受けることです。そして、答えが良い答えが出てこないならば、これは私が言うてることが間違いです。けれども間違いでない証拠をです、私が金光大神のみ教えを頂いて、それを実証しておるように、なら私の言うておることを、間違いなく守って、実証しておるのが今の末永先生が南米で現わしておるおかげの世界です。もうどげん考えても人間技、人間の働き力知恵力というようなものでは、考えられない程しのおかげ、言うならばそげなんこつはあるまいと、ね。この頃青年教師会で、その佐田先生がお話したら、今日先生方がそう言うたと言われるようにです、ね、もう真実性を欠う程に素晴らしい答えが出てくるです、合楽理念のマスター、そして行、その行者となって、それを生活の上に現わしていくと、ね。だから言うなら、合楽理念のいよいよ徹底した確立を先ず願わせて頂くところから、しかも家族に押し広めていくところから、もうあなたの子供は大丈夫だ、孫は大丈夫だ、言わば家繁盛子孫繁盛間違いない、神の機感にかのうた氏子としての、お取立てが頂けれるようになる、合楽理念をマスターして段々信心さして頂きよると、最後んところに、ね、「神のおかげを知らぬから互い違いになる」と仰るように、神のおかげをもう嫌がおうでも分からなきゃならなくなってくる。「神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、身代もでけ、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ」と仰る、ね、神の大恩を分らずにはおられないように、合楽理念は説いてあるです。まだ行じていきよると、そりゃ、それを感じずにはおられない、だから有り難うなるんです、嬉しゅうなる、楽しゅうなって愉快になってくるんです。ね。
あいらっ、今、なら教団で言われるところの、「頂く信心から生みなす信心」いかにも頂く信心の、のかしていかにゃんごたる、そうじゃないです。頂く信心と共にです、ね、生みなす信心、それはどういうことかと言うと、ね、それこそお取次ぎを頂いたら、不思議と思われるようなおかげを頂き現しながら、それと、ね、信心を頂く。ね。それを言うならば、あらっ、改まって願う、ただね、改まらんでお願いしてもおかげは頂く、けれども改まって願うという信心と、それとこれとが一つになった時に、はじめて、ね、それこそ、凄まじいまでの勢いで、生みなされてくる働きというものが生まれてくるんです。生みなされるということは、一人じゃ生まれんのです。ね。その頂く信心と、言うならば、改まって願うという信心、ね、この二つが合体した時に、本当の金光大神が天地金乃神様からお受けになられた、「難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれ」という、もうしゃっちもっちでも、難儀な氏子が助からなんごたる働きが生みなされてくるわけです。それをなら、南米では、それを生みなしていっておる、それが実証していっておるわけなんです。ね。おかげと、ね、それから改まって願うという、それとが一つになって、合楽理念を基にしての、布教であるところに、ならああいう、ね、本当とは思われないようなおかげの世界が開けれてくる、これは親先生だけの、世界だけじゃない、末永先生の世界だけではない、銘々の言うならば、信心の世界が、そういう有難いね、もう決して難しいことじゃない、問題はその気になるのですから、だからその気になってです、ね、なら十年と信心が続いたら、我ながらわが心が拝めれるような、祭れれるような、おかげにもなってきましょうよ。ね。いよいよわが心が拝めれるようになる時に、相手が拝めないはずは絶対ありません、相手が、もうあん奴だけは拝まれんということは絶対ないです、わが心が拝めれる時には、もう自分の周囲の一切が拝めれる時です。ね。
なんとか、いよいよ、言うなら、合楽理念を持ってお互いの、洗脳を受けて、そしてその一つの思い込みを持ってです、日常生活が出ける。本当に心行、家業の行が伴うた、ね、それこそ、朝のすがすがしい、朝参りが有り難うなってくる、そして昼のいよいよ忙しい御用に立ち向かわせてもらう、夜はもう有り難うして有り難うして、ね、本当にこぼすまいと思うても有り難涙がこぼれるような、有難い日々が、いよいよ本当なものになっていく、しかもそれが家族中にそういうのが、そういうおかげの、喜びの世界が広がっていく、ね、もういよいよ子に伝わらないはずはない、孫に伝わらないはずはない、ね、はぁこの生き方でいけばです、なら、神の機感にいよいよかのうた、氏子として、家柄とし、家として、家柄一筋なって、子々孫々栄えていくところのおかげの土台を、なら私共が先ず創らなければならないということでございます。どうぞ。